ハチミツとクローバー

パラレル・ワールドのハチクロ

羽海野チカ原作の漫画を実写化。登場する美大生5人全員が片思いという究極にプラトニックな設定を貫きながらも、「恋愛」を「コミュニケーション」のひとつとして捉える事で人と人の繋がりを見直し、そのすれ違い故に起こる青春期の胸の高鳴りや焦燥をリアルに切り取る事に成功した、まさに「新時代の少女漫画」とも言うべき作品だ。しかし、「究極のプラトニック」を描くために確立された世界はあまりにもファンタジックでケーキのように甘く、それらのアクセントとして投下されるテンションの高いギャグの数々も、完全に漫画の表現技法に乗っかった「間」で描かれており、実写化はほとんど不可能と思われていた。僕自身も、映画の製作発表があってから、ずっと「どうやって実写化するつもりなのだろうか」と気になっていたのだが、実際作品を見て、なるほどと納得する部分もあれば、うーんと腕を組んで悩んでしまう部分もあった。先に結論を言ってしまうとこの映画は「ハチミツとクローバー」であって、「ハチミツとクローバー」ではない、という事だ。

登場人物の設定はほぼそのままに、ストーリーはほとんどオリジナルという随分と思い切った形で実写映画化した本作は、原作の世界観を一度完全に破壊し、実写映画用に再構築したパラレル・ワールドの物語と言っても過言ではない。あまりにファンタジックになりすぎた原作の持ち味を現実レヴェルに引き下ろし、実写映画として成立させる事には成功しているし、原作のファン以外が見ても受け入れ易い作りにもなっている。良く言えば「一般向けにカスタマイズされた作品」と言うことになるが、裏を返せば「毒気」を抜いたどこにでもある青春映画でしかない。また、脚本の作りも割とラフ(これは脚本を担当した河原雅彦の良くも悪くも味ではあるのだが)で、ひとつひとつのエピソードや登場人物の心情が上手く噛み合っておらず、何がしたいのか、どう物語を転がしたいのかが見えてこないので、かなりヤキモキさせられる。迷走を続ける物語と登場人物たちの行動は散漫としていてまとまりがなく、気持ちもストーリーも上手く噛み合ないまま無理矢理物語を進めていくので、それらが収斂していくクライマックスを見ていても感情移入も出来ないまま。何だか置いてけぼりを食う形で、結局上手くまとめあげられずにエンディングに突入するので、見終わっても物凄く釈然としない気分で劇場を後にする事になってしまった。

原作を忠実に再現(トレース)することに躍起になっている最近の映画・ドラマ界の中で、かなり思い切ってオリジナルに走ったところは素晴らしいし、元来映像化というものにはそう言う部分も凄く大事だと思ってはいるのだが、そのくせ詰めが甘いというか。折角実写版は別物として制作しているのだから、「別物だからこそ見せられる作品」というものを打ち出して欲しかった。それが出来れば、この「ハチミツとクローバー」はもっと違う表情を見せていたと思う。

ゲド戦記

多くの課題を残した初監督作品

アーシュラ・K・ル=グウィンによって書かれ、「指輪物語」「ナルニア国物語」に並んで世界的に有名なファンタジー小説をスタジオ・ジブリがアニメ化。監督を務めるのは、宮崎駿監督の実子であり、これが初監督と成る宮崎吾朗。映画版の実質主人公となるアレンをV6の岡田准一、大賢人ゲドの声を菅原文太が担当するなど豪華な声優陣も含め、今夏の話題作として注目を集める傍ら、宮崎吾朗氏が初めてアニメ映画のメガホンを取るということに対して、危惧する声も上がっていた本作。初監督としてはよく出来ていると思う部分もあるが、やはり多くの課題を残す結果になったと言わざるを得ない。
太古の言葉が魔法として力を発揮する多島世界アースシーを舞台とし、一人の魔法使いゲドと彼を取り巻く人々を描いた原作は、外伝を含めると6冊にも及ぶ大長編となるが、第3巻にあたる「さいはての島へ」をベースにし、そこに他のエピソードの要素を盛り込むことで、2時間の物語にまとめ上げ、尚かつ人間の持つ「強さと弱さ」と「生と死」という二つのテーマをしっかりと浮き彫りにさせた手腕は共同脚本家がついていたとはいえ、非常に上手い。しかし物語の持つプロット自体は単調で盛り上がりに欠け、突きつけられるテーマもこれと言って目新しいものでもなく、脚本としては非常に優秀な仕上がりだが、優等生的すぎて面白みがないというのが正直な感想だ。その癖、ヒロインであるテルーが持つ秘密についてはかなり説明不足。一応それらしい伏線が張ってあるのだが、どうしてそうなのか、なぜそうなったのかという説明が一切されずエンディングに突入し、観客はかなり放置される形となるので相当後味が悪い。物語の展開上、この説明不足さは監督の意図したものであるのは明白なのだが、では何故そうしたのかと考えてみてもとんとわからない(僕の勉強不足故ならば、それはすいません)。
更に、ここが最も致命的だとも言えるのだが、この作品の作画は通常のジブリ映画と比べて格段に劣る。駿監督の作品のクオリティが高すぎるのを差し引いてもかなり雑だ。監督が違うのだから別の作品として見る…という考え方も当然出来るのだが、見た目がいつものジブリアニメの絵そのままなので、どうしても比べてしまう。深夜のテレビアニメでもかなり高度な作画を見ることが可能な現代で、劇場映画で、しかも天下のジブリアニメがこのクオリティとなるとかなりの失望を味わわざるを得ない。加えて、演出に躍動感がまるでなく、キャラクターの動きが全く活き活きとしていない。ネタバレになるので詳細は伏せておくが、後半は見せ方によってはいくらでも絵的に盛り上げられる場面の連続であるのに、どれもこれもが単調な展開で終わってしまっているので、映像的にも物語的にもカタルシスが得られず、消化不良なやるせなさに襲われる。一応クライマックスにそれらしい映像も用意されてはいるのだが、これはこれで作画の雑さが気になっていまいち盛り上がらない。別に作画のクオリティが全てとまでは言わないが、実写映画において撮り方や編集が作品を面白く見せる重要な要素であるのと同じように、アニメ映画において絵のクオリティはやはり重要な位置を占めているように思える。駿監督の「ハウルの動く城」は絵ばかりが動いて、物語を進めることを放棄していたが、この「ゲド戦記」は物語ろうとする意思に対して絵の力が全く追いついていない。絵の持つ力とそこから得られるイマジネーションの限界に挑み、どんどんアナーキーになっていく駿監督と、ジブリ映画の原点に立ち返り、物語を動かす力をもう一度再建させようとする優等生的な吾朗監督。親子で全く逆のベクトルに向かっていると言ってしまえばそれまでだが、この二人が共同で「ゲド戦記」を制作すれば、かなりのものになったのではないかなぁという気がして、それはそれで非常に惜しい。
…と、色々厳しいことを書いてしまったが、僕は吾朗監督の次回作に期待を寄せてもいる。完全に直感の話になってしまうのだが、「ゲド戦記」を見て、今後のジブリを担って行くのは彼しかいないのだろうなという仄かな希望も確かに感じ取ったからだ。誰だって最初から上手くやれるわけじゃない。これがスタートラインなのだ。ジブリ映画を見て育ってきたひとりのファンとして、温かく見守って行きたい。

M:I:III

無難に面白いが、精彩を欠いている

60年代から70年代に大人気を誇った海外ドラマ「スパイ大作戦」の現代版リメイクの第3作目となるのが、本作「M:I:III(Mission Impossible 3)」。ブライアン・デ・パルマを監督に迎え、テレビシリーズのレトロな雰囲気を保ちつつも、デ・パルマお得意のトリッキーかつスタイリッシュな映像と反則とも言えるストーリー展開で生まれ変わった第1作目は、あまりに思い切った展開故に賛否はあったものの、その大胆さに僕は惚れた。ネタバレになるので未見の人のためにあまりはっきりとは書けないのだが、この映画で選択されたオチが、今までの「スパイ大作戦」から脱し、全く新しい「ミッション・インポッシブル」を作って行くという宣言のように思えたからだ。正直僕はトム・クルーズという役者はそれほど好きじゃないが、「ここから何かを始めよう」としている当時の彼からはとてつもないチャレンジ精神を感じていた。だからこそ、ジョン・ウーを監督に迎え、制作された「M:I-2」を見たときはものすごく失望したのだ。ムキムキに鍛え上げられた体で、作戦などほとんどおかまいなしに戦うイーサン・ハントには、前作のようなギリギリの場面を知恵と強靭な精神力で乗り切るというスマートさは皆無。無意味に飛ぶハトを見ても、男の美学は感じられず、アクションが派手なだけの凡百の映画と化した様を見て、これは本当に同じシリーズの映画なのだろうかと本気で疑ってしまった。

そして今回の「M:I:III」である。前述した経緯もあり、期待と不安が入り交じる形で見たのだが、取り敢えず前作よりは面白かった(前作が酷過ぎたという言い方も出来るのだが)。テレビシリーズの「LOST」などを手がけたJ.J.エイブラムスを監督に迎えたおかげで、ストーリー・テリングは格段に良くなり、ドイツ、バチカン、上海と目紛しく展開するプロットをスピーディかつポイントを押さえた演出で飽きる事なく見せてくれる。アクションやちょっとしたどんでん返し(まあ、ほとんどの人が気づくレヴェルなんですが)も十分に用意されており、更に人間ドラマの深みも加味。敵役のフィリップ・シーモア・ホフマンも癖のある演技で、なかなかの悪人振りを見せてくれている。これだけの要素を余すところなくまとめ上げた監督の力量はかなりの評価に値すると言っていいが、だからといって映画が文句なしに面白いのかと聞かれれば、そうでもなかったりするのがまた微妙なところ。

まず、ミッションパートの枷が弱い。チームの仲間と協力し合い、不可能かと思われるミッションを成功させて行くというのが、この映画の醍醐味のはずなのに、そのクリアパターンがかなり使い古された手ばかりを使っているので新鮮味がない。見せ場であり、この映画最大の難関であろう上海での空中ダイヴのシーンも、仲間から「無理だ」「死ぬぞ」と再三言われるので、その難易度の高さは何となく分かるのだが、肝心の敢行シーンではイーサンがそつなくこなしてしまっていたりして、どうにもリアリティが出ない(例えば、イーサンの前に仲間が挑戦するも、失敗して死んでしまうとか、そう言った前振りがあっただけでも大分違っていたと思う)。その後にこの映画のキー・アイテムを奪うシーンがあるのだが、そこも映像的に端折ってしまっているので、かなり拍子抜けを食らう形になる。どれもこれも緊張感に欠け、その緊張感の欠落が「ミッション・インポッシブル(不可能作戦)」と銘打っている作品であるにも関わらず、作戦の不可能具合が全く伝わってこない最大の要因となってしまっていると思う。これと比べれば、様々な枷に阻まれながらも、時には隙をつき、ほとんど強引にミッションを敢行して行く「24」のジャック・バウアーの方が遥かに不可能を可能にしていると言えるだろう。

また、「ミッション・インポッシブル」のシリーズとしての連続性がないのもかなりキツい。主人公のイーサン以外にレギュラー・メンバーはほとんど存在せず、主人公のイーサンですら、一作目ではスマートに、二作目では肉体的に、そして今度は人間的な苦悩を見せたりと、本当に同じ人物なのかと言うくらいキャラクターの変貌を遂げてしまっている。極端な言い方をすれば、別にこれを「ミッション・インポッシブル」と言い張らずとも、トム・クルーズ主演の新作アクション映画として発表する事も可能なのだ。むしろそういう風に発表した方が、変な先入観がない分面白く見れた気がしないでもない。シリーズ誕生から10年、最初にあった気概やチャレンジ精神は完全に成りを潜め、今やただのトム・クルーズの自己満足映画に成り下がってしまったと言っても過言ではないだろう。とはいえ、シリーズ「1」「2」と続けてきた恒例のシーンを排している事から、流石のトムも今回ばかりはその事を理解しているのかもしれない。これでシリーズが完結になるかどうかは定かではないが、いずれにしても作品の持つ魅力に一度立ち返らなければ、このシリーズに未来がないような気がしてならない。

DEATH NOTE(前編)

高望みしなければ、原作のファンも満足できる作り

名前を書けば、その人間を死に追いやることが出来る「デスノート」。死神が落としたそのノートを拾い、それで悪人を次々抹殺することで、悪のない新世界を作ろうとする退屈な天才・夜神月。彼はやがて「キラ」と呼ばれる存在として、人々から恐れ、崇められるようになっていく。その一方で、キラが引き起こす大量殺人事件を捜査する世界最高峰の名探偵・L。彼はいかなる理由があろうとも殺人は罪とし、キラの存在を突き止め、キラを捕まえようと奔走する。月とL。この二人の天才による壮絶な頭脳戦を描いたのが「DEATH NOTE」だ。スピーディでスリリング、常に予想の斜め上を行く展開はあっという間に爆発的人気を呼び起こし、単行本一巻は発売されるや否やコミック史上最速で100万部を売り上げるという驚異的記録を樹立。以来、現在まで累計1500万部を売り上げている。次々と実写化のオファーが殺到したというこのモンスター・コミックが、満を持して実写映画化された。

僕は原作を連載開始当時から読んでおり、単行本も全て揃えている熱心な読者だが、この「DEATH NOTE」が実写化されると聞いたとき、実際問題難しいだろうなというのが第一印象だった。頭脳戦主体の物語のため、それぞれの思惑がモノローグで語られる部分が多く、それを省いては観客にはスリリングなやり取りが伝わらないと思ったし、死神リュークの存在も最新技術を駆使したCGとはいえ、膨大な予算をかけて1年単位で制作するハリウッド映画のものとは規模が違うため、生身の役者との違和感がどうしても拭いきれないのが想像出来たからだ。しかし、実際こうやって出来た作品を見てみると、非常に上手くまとめている。正直冒頭から月がデスノートを拾い、キラとして目覚めるまでの展開はどうにも間延びした感じがして、これはヤバいかなと危惧したのだが、もたついたのは立ち上がりのみでFBI捜査官レイが登場したあたりから、怒濤のトリック合戦で観客を飽きさせない。ストーリーとしては、3巻あたりの南空ナオミ編までをほとんど忠実に再現。ファンにはおなじみのバスジャック事件、地下鉄(原作では山手線)の攻防、ポテトチップスのあのトリックもちゃんと入っている。これほど性急な展開で、あれだけのトリックの数々をしっかり見せられるものかとハラハラしたが、どれも必要最低限の説明と映像のみで上手く見せることに成功。加えて、オリジナルキャラクターの詩織(香椎由宇)を絡め、南空ナオミのキャラクターを膨らませることで、原作のただのトレースに終わらない、映画版ならではのカタルシスを盛り込んでくれている。ラストも連続ドラマばりに続きが気になる終わらせ方で、後編への橋渡しも万全だ。気になるCGのリュークとの共演シーンも最初は違和感が拭えないものの、ある程度の諦めを持って見れば、そのうち慣れてくる。原作を知らない観客を漫画版にフィードバックさせるには十分だし、高望みさえしなければ原作のファンもそれなりに満足出来る、実によく出来た仕上がりだ。ただし、これは全て月とLが直接対決していないエピソードだから上手く映像化出来たという見方も出来る。恐らく後編で描かれるであろう、月とLの裏の裏の裏まで読み合う直接対決、更に弥海砂の登場で複雑化する攻防、また、原作とは全く違った展開になるであろうストーリーをどう見せられるか…。前編を見終わって尚、それらが依然として懸念事項として残るのは否めない。極端な言い方をすればやはりこれはあくまでも前編であり、前哨戦や壮大な前振りでしかない。実写版「DEATH NOTE」が成功か否かの判断は、いずれにせよ後編に委ねられることになる。

残念と言えば、月役の藤原竜也による直筆の文字が汚いことだろうか。演技としては十分申し分ないのだが、こういう面で月が天才だと言う説得力が薄れてしまうのが非常にもったいない。ここばかりは誰か代筆を立てた方がよかったような気がしてならない。

嫌われ松子の一生

人生は短い目で見れば悲劇だが、長い目で見れば喜劇である

下妻物語」のヒットで、世間にその名を馳せた中島哲也監督最新作。山田宗樹の原作小説を中谷美紀主演で実写映画化。女の子なら誰でも一度は憧れるシンデレラ・ストーリーを夢見る少女・松子。中学校の教師になり、順風満帆な人生を約束されていた彼女は、修学旅行の万引き事件の濡れ衣を着せられてしまい、仕事をクビに。そのまま家出を決行した彼女は、以降転落に次ぐ転落の壮絶な人生を送る。

50年にも及ぶ一人の女性の生涯を追う物語のため、どうしてもひとつひとつのエピソードは短くならざるを得ず、それ故にストーリーの展開も駆け足になってしまうのだが、それを感じさせないのは、やはりCM界で鍛えられた中島監督の手腕によるところが大きい。歌と踊りによるミュージカルシーンを取り入れることで、膨大な時間をコンパクトにまとめたり、少女漫画チックなメルヘンな視覚効果を使って、物語全体の重さを軽減させたりするところも実にうまいが、それ以上に一瞬に込める情報量の多さに感服だ。出番が少ししかない登場人物の背負ってきた人生をたったワンカットで語らせる映像の説得力の強さは、松子の人生だけでなく、彼女の生きた時代と人々を立体的に描き出す。ド派手な演出に目を奪われがちだが、そのきらびやかな映像の奥で、この映画はしっかりと「人間」を描いている。それ故に、一見どうしようもない自業自得な転落を繰り返す松子の人生が光り輝き、ラストでは観客の心を大きく揺さぶるのだ。正直僕は後半ずっと泣きっぱなしだった。松子の転落は自分自身の責任によるところが多く、同情の余地もない。僕自身、松子のような人生は出来ればごめんだし、彼女のような女性とも絶対つきあえないだろう。だけど、どんなに間違っても、どんなに苦しくても、幸せを信じて全力で生き抜いた彼女の姿には、深い共感を覚える。最近はみんな間違うことに臆病だ。一度でも失敗したら、あいつはもう駄目だというレッテルを貼られ、それで終わりのように思われてしまう。だけど、間違えても人生は続くし、生きている以上やり直しは効くのだ。恐れずに生きること。失敗してもくじけないこと。沢山の勇気と感動と、そしてほんのちょっぴりの教訓を決して声高ではなく見せてくれる、素晴らしき人間讃歌映画だと思う。まだの人には是非とも見ていただきたい一本だ。

インサイド・マン

確かに面白いんだけど…

社会派の映画を撮ることで知られるスパイク・リー監督が初めて徹底した娯楽映画に取り組んだのがこの「インサイド・マン」だ。マンハッタンの銀行に立て籠もり、50人の人質全員に自分たちと同じ服装を着せるという陽動作戦に出た銀行強盗団とその事件を担当する刑事、更にとある目的のために事件に介入する弁護士の三者が入り乱れ、互いに牽制し合い、それぞれの目的達成のために心理戦を行うというもの。デンゼル・ワシントンジョディ・フォスターという2大アカデミー俳優の夢の共演を実現させただけでなく、頭脳明晰な銀行強盗団のリーダーをクライヴ・オーウェンが演じ、彼らを迎え撃つ。脇役にも名優クリストファー・ブラマー、ウィレム・デフォーと言った演技派を配置し、まさに現代最高峰の俳優による演技の頂上決戦ともいうべき豪華仕様だ。

ストーリーも演出も実にスパイク・リーらしい都会的なクライム・サスペンス。エンターテイメントに徹しながらも、人種差別や戦争犯罪といったデリケートな問題をチラつかせ、それらが重くなりすぎないよう、茶目っ気のある演出と科白を織り交ぜる。尚かつ緊張感を途絶えさせることなくラストまで引っ張っていく手腕は見事。ただし、ストーリーの本質的な部分をなかなか見せないように刑事、弁護士、強盗団と言ったそれぞれの視点から断片的に物語の全体を象っていく手法を取っているため、序盤の辺りは視点が定まらず、少し散漫な印象を受ける。また、これ以上ない豪華キャストだったり、序盤からかなりド派手にぶち上げたストーリーの割には、メイン・トリックが些か地味。巧みな演出とストーリー・テリングでトリックを決して読ませないミスリードは確かに美しいが、肝心のネタが地味なので、種明かしをされても「ああ…なるほどね…」と納得はしても、「うわ! 騙された!」と言った大きなカタルシスにまでは至らない。更に、豪華すぎるキャストの弊害か、それぞれの役にそれなりの見せ場やらバックヤードを準備しているので、ストーリー全体の締まりがやや間延びな感があるのも否めない。もっと要点を絞って90分ぐらいのスピードでバッサリ見せてしまうか、ネタに見合ったもう少し地味なキャストにすればもっと面白かったような気がするのが実に惜しい。

結果として、確かに面白いが何だか釈然としないと言う、微妙な後味が残る映画となってしまっている。もの凄く極端な言い方をすれば、凝った「オーシャンズ11」と言った感じだ。過大な期待はせず、肩の力を抜いて見れば間違いなく楽しめる作品ではあるのだが、このキャストではどうしても期待しちゃったりするのがまた罪なところ。そう言う意味では、やっぱりミスキャストな映画なのかなぁ。

Sound by iLL / iLL

Sound by iLL

ナカコー・コード

SUPERCARのナカコーによる新プロジェクト「iLL」。限定販売のレコードをこっそりとリリースしたものの、その正体も思惑もほとんど謎のままだったが、この度正式にアルバムを発表し、遂に全貌が明らかになった。一聴すると前述したサンプルレコードとほぼ同じで、ボーカルレスなエレクトロニカともアンビエントとも取れる電子音が飛び交うインスト作品集だ。SUPERCAR時代のソロプロジェクト、NYANTORAがビートレスなラフスケッチとも言える音の断片のみの集合、プリミティヴな衝動そのものだったとするならば、これはそれらを組み合わせて「曲」というフォーマットに流し込み、「作品」に仕上げたという感じだろう。ただ、その「作品」としての組み合わせ方はサンプルの時より研ぎ澄まされ、意図が明確になり、より深みを増したように思える。一見無関係に飛び交っては消える音の断片が、有機的に結びつき合い、いつしか大きなネットワークを形成していく。明確なストーリー性もポップネスも一切放棄されているが、シナプスの連結を思わせる広大な音のネットワークからは、作り手側の見ている風景や感情がダイレクトに伝わってくる。音のひとつひとつの鳴り方、配置、構成には全て意味があり、それらを読み解いていくことで、ようやくその全体像を捉えることが出来るのが、この「iLL」と言うわけだ。安直に歌詞やメロディに共感性を求め、それらに泣けるか泣けないかという事のみに重点をおいて判断されがちな最近のポップカルチャーに対する強烈なアンチテーゼとして投げかけられた作品であることは一目瞭然であり、その手法としての作品の完成度も勿論評価に値すると思うのだが、狙いに対してこの作品自体が持つ壁はあまりに高すぎる気がしてならない。

そもそもそうした「ポップに対するアンチテーゼとそこからの目覚め」という挑戦はSUPERCAR時代から行われてきた作業であり、SUPERCARはあくまでもアンチを叩きつけながらも、常に新しいポップミュージックの形を提示することでその道を自ら指し示してきたバンドだった。しかし、このiLLが示しているのは新しい音楽の可能性であっても、ポップミュージックの可能性ではない。何が「ポップミュージック」かという定義にもよると思うが、少なくとも万人受けではないとはっきりと言える。王道に対し、同じ視点でいながらも「そうではなくてこういう道もあるんだよ」と平行したもう一つの道を切り拓いてきたSUPERCARは、それ故に多くのリスナーやミュージシャンの意識に変革を起こすことが出来た。だが、iLLの見ている視点は現在の音楽シーンを高みから俯瞰し、そこで黙々と別次元の音楽を提示しているようなものである。確かに可能性は感じるが、魅力的かと言えばそうでもない。音楽から得られる情報そのものを重視したあまりダイレクトになりすぎてしまい、逆に受け手側に対して壁を作ってしまっている。

誤解しないで欲しいのだが、僕はこのiLL自体を完全に否定いるわけではない。ナカコーが見ている風景も、目指す場所も僕になりにしっかり感じ、それに共感していた上で、彼の才能ならもっと別のやり方で新たな道を切り開けるのではないかと期待しているのだ。どうあれiLLはまだ始まったばかりのプロジェクトだ。ここからどういう進化を見せるのか、今はただ見守りたい。