修羅場 / 東京事変

迷走を続ける疑似家族

修羅場
椎名林檎個人としての活動の終止符を打ち、活動を開始した東京事変だが、僕はこのバンドの活動が目指す場所が全くと言っていいほど見えてこない。何も求めていないし、何かを発しようという気概もない。ただ、仕事としてポップミュージックを創り、それを世に出すというある意味諦めとも悟りとも言える心境が垣間見えているように思える。以前では絶対考えられなかったテレビドラマの主題歌というタイアップは、その「諦め」を最も顕著に現すものだったのではないだろうか。
デビューからソロ活動終局まで椎名林檎は一貫して肥大した自意識と闘い、時には周囲を罵倒し、時にはひれ伏して泣いていた。それは発狂寸前のギリギリの精神状態に見えた。凄まじいまでの狂気を発しながらギターを掻き鳴らす当時の彼女は、誰よりも凛々しく、何よりも脆い存在だった。ソロ活動を終わらせ、バンドという形に落ち着いたのは、今まで抱え込んでいた自意識と拡大しすぎたパブリック・イメージを分散させて、自身の負担を軽減させることが目的だったのではないかと考えている。結果として楽曲やライヴ・パフォーマンスから毒気がすっかり抜けてしまうことになったが、彼女は恐ろしいまでに安定した。そう言った意味では「東京事変」は一種の疑似家族的な役割を果たしているのかも知れない。
ギターとキーボードのメンバーチェンジを経て、第二期に入った彼ら。先にも書いたようにドラマのタイアップ曲となった今作は、椎名林檎の持ち味であるケレン味サウンドがたっぷり盛られ、何処を聴いても「林檎節」という出来だが、それらは全て形式美に乗っ取ったものであって、それ以上のものが何も感じられない。極端に言うと、疑似家族を手にして安定した椎名林檎自身がその安定を壊さぬよう、自分からバランスを取っているようにも見える。それが良いか悪いかを僕は論じる気はない。個人にとって安定は最も大切なことだ。それを犠牲にしてまで手にするものなどないだろう。ただ、行く先のないバンド活動は延々と迷走を続けているようにも思える。バンドとして目指す場所。それが今の東京事変に必要なものではないのだろうか。