ポビーとディンガン

もう一歩先の結末が見たかった

オーストラリアに暮らす少年、アシュモルには悩みがあった。それは妹のケリーアンポビーとディンガンという架空の友達に夢中なこと。ところがある日、ケリーアンの前からポビーとティンガンが姿を消し、心配のあまりケリーアンは病床に伏してしまう。病気の妹を救うため、アシュモルは消えた二人を捜すことにしたのだが…。
「信じる」ことがやがて奇跡を生むという「34丁目の奇跡」の流れを持つ話だが、キーパーソンとなるケリーアンの描き方がドライなため、序盤は共感以前に空想癖のある我が侭なクソガキに見えてしまって少々ウザく感じてしまった。加えて、ケリーアンの為にポビーとディンガンを探しに出た父親が泥棒と間違われてしまい、その為に村中の人間から容赦ない迫害を受けることがストーリーの柱となっているため、全体の語り口が重い。それらがやがてラストへと収斂していき、小さな感動を引き起こすのだが、大人の確執を踏まえながらもとことんファンタジーとして見せた「34丁目の奇跡」と違い、全体的なフットワークの重さが足を引っ張る形になってしまっている。舞台となっているオーストラリアの田舎町の砂埃だらけの風景が、物語のトーンをより無味にしている気がしないでもない。この手の話としてはあまりに視点が客観的過ぎるというか、突き放し過ぎな気がする。
「信じる力」が奇跡を生むと言う話は、まんざら夢物語ではないと思う。何故ならば、「現実」とは僕たちが外の世界を知覚し、認識した物事に他ならないからだ。実際に存在するかどうかなんていうのはたいした問題ではない。本気で「信じて」いるのであれば、それは存在するのだ。「信じる」という事は現実の世界を浸食する力を持っている。だが、この物語の登場人物たちの中で、ポビーとディンガンを本気で信じた者たちはほとんどいない。その為物語は、村全体による狂言という様相を呈してしまい、結果として「どこにでもあるいい話」という位置に落ち着いてしまって、いまいち盛り上がりに欠けるのだ。最後の最後に、信じる力が村の中に芽生え始めるのだが、どちらかと言えば僕はその先が見たかった。ケリーアンが起こした奇跡の行く末を見ずして、この「ポビーとディンガン」は終われないのではないだろうか。この結末のもう一歩先。そこがこの物語の着地点だったような気がしてならない。