ファンクラブ / ASIAN KUNG-FU GENERATION

最終形のその先を

ファンクラブ
前作「ソルファ」は完全に勝利のアルバムだった。下積み時代から長年積み重ねてきたアジカンのキャリアの集大成とも言える、ポップネスとバンドの肉体性が高密度で結合したサウンドと、全力で未来をつかみ取ろうと藻掻く言葉の数々。それらは多くの人々に光を投げかけ希望へと導き、結果としてセールス的にも成功を収めた。名実共に頂点に登り詰めた彼らだが、多くの絶賛の後に次第に厳しい評価が目立ちだしたのもまた事実だ。あまりに無邪気に希望と未来を描き過ぎた「ソルファ」は輝けば輝くほど、その無縫さ故に空回りを起こし浮ついてしまう。それもそのはずで、彼らが描いた勝利や希望にはあまりにバックグラウンドがなさすぎた。闘う意味。希望を必要とする理由。動機が見えない戦いは、勝利の獲得が増えるほど、空洞化を起こし、心を動かさなくなる。事実上では確かにバンドは勝利し、望んだ未来をその手にしていた。しかし、登り詰めた世界はあまりにあっけなく、無味乾燥としたものであった。それと同時に、それまでの集大成とも言うべき「完成品」を世に送り出してしまった彼らには、それまでのやって来たバンドのやり方では「この先」には行けないという大きな壁が立ちはだかっていた。無意味な勝利と、大きな過渡期。彼らは未来を勝ち取っても尚、迷子であり続けたのだ。

サードアルバムとなる「ファンクラブ」を手にし、一足早く聴いたのだが、最初は戸惑いを隠し切れなかった。前2作と違い、かなり内省的でシリアスな内容となっており、聴き込むまでもなく作品全体のイメージは暗い。あれだけ光り輝いていた希望や未来は影を潜め、虚脱感は虚脱感のまま、憂鬱は憂鬱のまま、失望は失望のまま、そのままの形で眼前に突きつけられている。今まではそれらから逃れるように、振り払うかのように強力なパワーと速度で未来を切り開いてきた彼らが、今度は一転して全く同じパワーと速度で心の闇の部分へと突き進んでいる。このアルバムをバンドの「現在形」として判断するならば、評価は賛否両論分かれることになるだろう。聴く人によっては「彼らは負けたのだ」と思うかも知れない。しかし、このアルバムを聴いた上で前2作を聴き直してみると、「ファンクラブ」の持つ真の意味が見えてくる。それは欠落していた「動機」と闘うべき「敵」の具現化だ。徹底して自分たちが持つ「闇」を描き、何故あれほどまでに「未来」と「希望」を必要としたのかを提示することで、バンドと作品の持つ世界観をより立体的に広げようとしている。そう、これは「君繋ファイブエム」「ソルファ」の影の部分を全面的にクローズアップした作品なのだ。あれだけ浮ついていた「ソルファ」でさえ、このアルバムの世界を通すことで輪郭がはっきりとしてその様相が明確に現れる。単純にバンドの「現在形」を切り取っただけのものでもなければ、外界と闘い続けることに嫌気が差し、内面と延々と向かい合っているだけの「逃避」の結果でもない。それならば、これだけのパワーと速度は必要ないはずなのだ。このアルバムはまるで「足場」を固めるかの如く、今までとは逆のベクトルに杭を打ち込むように深く深く突き刺さっていく。

タイトルの「ファンクラブ」には、ただの支持者の集まりではなく、真の意味での仲間を選出する篩いの意味が込められているように思える。しかしそれは一時期の「共闘」ブームのような無責任な愛と無責任な激励が起こす、安っぽい歌や欺瞞の大セールではなく、明確な闇を突きつけ、それは嘘じゃないと突き飛ばし、それでも未来を勝ち取っていくものだけに手を差し伸べるという非常に厳しいものだ。勝利のその先、未来のその先、最終形のその先に何を求めるのか。彼らの本当の戦いはここからなのだ。