交響詩篇エウレカセブン

ねだるな。勝ち取れ。さすれば与えられん。

交響詩篇エウレカセブン 1 [DVD]
放送時間が日曜朝7時なので朝起きられず、全体の2割程を飛ばし飛ばし見ていたのだが、やはり話の全貌が全くつかめず。物語も後半戦に突入してきて、このまま置いてけぼりを食らうのは流石にまずいかなと思ったので、慌ててDVDを借りてきてもの凄い勢いで一気見しております。
トラパーと呼ばれる粒子が大気中に含まれる世界に暮らす、14歳の少年レントン。彼はそのトラパーをボードに捉えサーフするスポーツ「リフ」に夢中になりつつも、先の見えた将来にうんざりしていた。そんなある日、彼の祖父の営むジャンク屋に一機のLFO(巨大ロボットのことです)が舞い降り、中から美少女エウレカが現れる。レントンエウレカ、二人の出会いから壮大な冒険が幕を開ける…というのが2巻まで見たところの大まかなあらすじ。劇中にSupercarRYUKYUDISKO、KAGAMIなどのダンスミュージックが使用されたり、物語のサブタイトルや用語、登場人物名にも膨大な音楽分野からの引用があり、全体的にレイヴ、マッドチェスターな匂いがするのもかなりグッド(第一話のタイトルが「ブルー・マンデー」という時点で勃起してしまう)。
世界最古のLFOと呼ばれるニルバーシュにはどうやら意志があるらしかったり、もの凄い潜在能力を秘めていて暴走したり、物語の根底には「アゲハ構想」と呼ばれる何だか「人類補完計画」みたいなものが存在していたりと、要素要素を抜き取っていくとどうにもエヴァンゲリオンの焼き直しっぽい印象を受けるのだが、「リフ」と呼ばれるサーフスポーツやレイヴカルチャーなどと結びつけることで、登場人物も物語も外側に向かって突き進んでいる印象。碇シンジが最初から世界と他人を拒絶し、最終的にはそのふたつとどう向かい合っていくかということを突き詰めたエヴァとは違い、エウレカセブンは他者とのフィジカルなコミュニケーションを大前提とした上で、思春期の一人の少年の成長を描き出している。分かり易く例えるなら、エヴァを象徴する科白が「逃げちゃ駄目だ」ならば、このエウレカセブンを象徴する科白は「ねだるな。勝ち取れ。さすれば与えられん」と言うことだ。
主人公のレントンは、リフやダンスミュージックを通して喜びや感動を他人と共有し、コミュニケートするし、ヒロインのエウレカに対して恋をしていることを隠そうともしない(本人は隠しているつもりらしいがバレバレ)。何かのトラブルでエウレカに触れたり、一緒に居たりするだけでかなり大喜びする様はお前もうちょっと落ち着けよと諭したくなるほど露骨だ。更に自身が直面する問題(内面的・外面的)に対しても、思春期らしくうじうじ悩んでも、結局は自分の意志と行動力を持って解決していく。それが普通だろ、と言ってしまえばそれまでだが、萌えをフィーチャーするか、閉じた世界観の中でひたすら葛藤するかという極端な二極化を果たしている最近のアニメ界の中で、ここまで人間的にもカルチャー的にも開けた物語は珍しいのではないかと思う(と言っても僕はほとんどアニメを見ないので間違っていたらすいません・笑)。僕自身ようやくDVDで最初の方を見たばかりだし、物語自体もまだ現在進行中で、どう言った結末が待っているかも分からない。だけど、このエウレカセブンの「自分から物語を動かす力」からはしっかりと「生きる」という強さが伝わってくる。「逃げちゃ駄目だ」のその先に何をつかむのか。少年は今度こそ神話になる。