きみは死んでいる/その他短編

"セカンド・サマー・オブ・ラブ"はすぐそこ

運命なのか偶然なのかは分からないが、この芝居を見る直前にタランティーノの新作を見ていた僕は、あまりのシンクロ率の高さに驚かざるを得なかった。

映画、音楽、カルチャーと多分野における情報やオマージュをDJ的にMixし、シニカルな視点やナンセンスな味わいをスパイスに加えた物語は、如何にも90年代的と言ってしまえばそれまでなのだが、懐古主義に囚われた後ろ向きなものではなく、至って前向きなエネルギーに満ち溢れている。そしてそれは「ポジティヴ」という短絡的で無謀な前のめりさではなく、新たな扉を開きたいという、冒険的かつ知略に富んだものであることを付け加えておく必要もある。

お聞き及びの人も多いと知った上で敢えて語らせてもらうならば、タランティーノの新作『デス・プルーフ IN グラインドハウス 』は、彼が少年時代に熱中したB級映画を併せ上映していた場末の映画館の再現を目指したものだ。ロドリゲス監督による『プラネット・テラー IN グラインドハウス』との2本立てで、片方はカー・アクション映画を、もう片方はゾンビ映画を題材にしたものである。前述した通り、タランティーノは"グラインドハウス"を復活させることで自身の少年時代の再現(再燃といった方が正確かもしれない)を目指した。一方、ハセガワアユムの目指した(少なくとも僕がそう感じている)地点はどこかというと、同様に自身の青春時代である90年代だ。しかし、両者には決定的な違いがある。タランティーノは再現することに徹し、そればかりに熱を上げているが、ハセガワアユムの場合は、90年代のあの熱量を演劇界に持ち込むことで、演劇界自体に対して強烈なカウンター・カルチャーを打ち込もうとしている。

今回の『きみは死んでいる』は表題作(メインキャストの性別が変わるA、Bバージョンが存在するが)を軸にした、45分ほどの短編が併せて上演される"グラインドハウス"な話である。村上春樹ジョジョの奇妙な冒険と言ったサブ・カルチャー的な要素から現実に起こった事件(イラク人質事件、バージニア工科大学銃乱射事件,etc)まで、虚実入り乱れた情報をサンプリングし、物語の流れの上で再編集して見せる彼の手法の真骨頂といってもいい仕上がり。だが、今回特筆すべきは"替え歌"に過ぎなかった"渋谷系"物語を、クラブ・ミュージックのグルーヴの中に落とし込むことに成功したことだろう。

客入れSEの曽我部恵一、iLL、くるり、GREAT3からラストまで、全てはハセガワアユムというDJのプレイを楽しませてもらった気分だった。ディレクターとプレイヤーとオーディエンスが様々なカルチャーの情報を同じ目線で語り合い、呼吸している。それは90年代に存在した、あの一種確信犯的"共犯関係"であり、インターネットが跋扈する以前に人間が勝ち取った、最後の"サマー・オブ・ラブ"だ。

門外漢であることを百も承知で言わせてもらうが、この"共犯関係"を手に入れることで、今まで土着的で閉鎖的なイメージの強かった日本演劇(少なくとも門外漢の僕はそう感じている)が、漸くのことで拓けるのではないかと確信もしている。音楽に例えるならば、アヴァンギャルドなインディーズ・パンクか、フォークしかなかった演劇が"洋楽化"を起こし、ロックとしての文脈とポップとしての強度を勝ち取ることが(また、別の言い方をするならばマイルスがクールを誕生させ、ジャズそのもののイメージを根底から覆したかのように)可能になるということだ。

今回初のOFFOFFシアター進出ということだが、ライヴハウスでいうならLOFTといったところだろう。登竜門といえば聞こえはいいが、厳しい言い方すれば、まだ入り口に過ぎない。彼にはまだまだ沢山の階段が残されている。欲をいうならば、その階段を一気に駆け上っていく姿を見たいと思う。どうせなら日本中を炎上させてみせてよ。

"セカンド・サマー・オブ・ラブ"はすぐそこ。そうだよね? アユムくん。

(参考URL)
http://www.grindhousemovie.jp/

Sugarless Girl / Capsule

ラフでカジュアルなファッション・ミュージック

Sugarless GiRL
中田ヤスタカは本当に天才なんじゃないかと思う。前作から9ヶ月という短いスパンでのリリース、更にはアイドルユニットPerfumeのプロデュースも手掛けているというのに、どの作品も一曲として捨て曲がなく、輝かしいまでのクオリティを誇っている。多作でありながら、ここまでしっかりした仕事をこなす人はなかなかいない。

ポップミュージックのダンス化に成功し、バンドの持つ色を大きく変化させた前作「FRUITS CLiPPER 」の延長線上にいながらも、よりモードなサウンドへとチェンジした今作は、VitalicDAFT PUNKなどのフレンチエレクトロを彷彿とさせるサウンドを基盤としながらも、メロディは至って邦楽的。そのアンバランスさを違和感として感じさせないのは、恐ろしくカジュアルなサウンドメイキングによるものだろう。頭でっかちに作り込みすぎず、ラフなパターンでメロディをガシガシぶち込んでいく。まるで服を選ぶような気楽さだが、そのファッション感覚が抜群の音選びのセンスを見せつけている。ファッションでは、ポイントとして一ヶ所「ハズし」を入れてみたり、奇抜なパターンの組み合わせでポップ感を演出したりするのは割と常識だったりするが、いざ音楽となるとどうしても作り込んでしまう。中田ヤスタカは、エレクトロミュージックからそう言った堅苦しさを抜き取り、ラフに楽しむ事に主点を置く事でポップミュージックとダンスミュージック(もっと言うなら世間とクラブカルチャー)の垣根をはぎ取ることに成功したと希有な人物と言えるだろう。

こうしたセレクトショップ的とも言えるサウンドの元祖と言えば、説明するまでもなく「渋谷系」であるが、彼らは「服」のコーディネートのパターンで音楽を破壊・再構築していたが、中田ヤスタカの場合はまずデザインを決め、それから生地を切り取り、一から服を作り上げていく感じに近い。その人に似合う服があるように、ユニットによってそのサウンドをデザインしていく。そうして出来上がった服の一つ一つで、華麗なるファッションショーを展開するのだ。

iPodの登場により、音楽のセルフアーカイヴ化がどんどん進む現代で、こう言った音楽が登場して来たのは何だか必然的な気がする。人々は無意識のうちに一音レベルまで音楽を選択しているのではないだろうか。お気に入りの服と、お気に入りの音楽。たったそれだけの事だが、僕たちはそれに至福の喜びを感じている。時代を映す鏡は、いつだってファッションと音楽だったじゃないか。

the bird & the bee / the birds & the bee

無邪気でグロい少女の迷宮

The Bird and The Bee
 「レディオヘッド・ミーツ・カヒミ・カリィ」や「激甘のビョーク」なんて、簡単に言葉で言い表そうと思えばいくらでも出来るのに、そういう比喩に逃げたくない音だ。そもそもレディへとカヒミが融合したところで、お互いの個性を相殺してしまうだろうし、毒の抜けたビョークなど、最早ビョークでもなんでもない。「日本酒のコーラ割り」だとか「気の抜けたビール」みたいな、単純な足し算引き算で表現していい音楽ではない。
 メルヘンチックなバンド名が指し示す通り、サウンドそのものは60年代ガールズポップのメロディを現代風エレクトロニカで再構築した非常にファンタジックなもの。しかし、そうした表面的な柔らかさの裏に潜む刺々しさは実にパンキッシュだ。その正体はリトル・フィートローウェル・ジョージの遺児・イナラと、レッチリやベックのレコーディングへの参加や、リリー・アレンのプロデュースも担当した気鋭のジャズピアニスト・グレッグ・カースティンと聞けば合点が行くというもの。
 彼らの放つ辛辣さは、レディオヘッドが絶望したような、ビョークが母性を持ったような、そうした後天的な原因によるものではなく、少女であるが故に無邪気でグロいという、とても純粋なところに根付いている。その世界はテリー・ギリアムの映画『ローズ・イン・タイドランド』を思い起こさせる。ダークサイドのアリスが見せる夢は甘く耽美的で、それ故にハマると抜けられない。

MYTH TAKES / !!!

進化と深化のダンスミュージック

Myth Takes [帯解説・歌詞対訳 / ボーナストラック1曲収録 / 国内盤] (BRC167)
05年に突如としてリリースされたカヴァーシングル「Take Ecstasy With Me/Get Up」があまりにもシンプルな四つ打ちダンスビートだったので、「ああ、次回からはこういう路線にいくのかな」と少し寂しい思いをしていたが、まさかこういう方向に来るとは思ってもいなかった。「予想外だ」なんてキャッチーにカスタマイズされたセリフをちょっと前まで腐るほどCMで耳にしていたが、人の想像力とは思いのほか豊かで、実際に「予想外」である事なんてほとんどない。だが、このバンドはいとも簡単に予想の斜め上を行く。ロックともパンクともジャムバンドともつかぬカテゴリー不明のサウンドもさることながら、このバンドが異形だと言われるのは発想の飛躍にあるのだろう。伊達に「!」が三つも連なっていない。
 世界中を黒いダンス衝動で覆い尽くした前作「LOUDEN UP NOW」の流れを組むファンクビートを基盤としつつも、肉体よりも精神面へとアプローチを変えて来た本作は、血湧き肉踊るような即効性はないが、聴くほどにハマり、踊るほどに悟る。いつの間にか宇宙と直結している曼荼羅グルーヴは、サン・ラが常に夢見ていた境地だ。ダンスの起源は踊る事で神と出会うことだった。最前線のビートで攻めながらも、彼らは最も原始的な本能へと呼びかけている。いつか僕等は神と出会えるのか? 答えはこの先にある。

Myths of the Near Future / KLAXONS

とにかくみんなで歌って踊って騒ごう騒ごう

Myths of the Near Future
大好きなKITSUNE関連アーティストという事で興味本位で聴いてはみたらヤバいくらいに脳髄を撃ち抜かれてしまい、ここ最近はiPodでヘビーローテンション中。久しぶりに音楽のレビューを書いてみようかと思い腰を上げた次第。UKの新人ロックバンドKLAXONS(クラクソンズと読みます)。ダンスとロックを融合させたのが「ニューウェーヴ」であるなら、彼らはレイヴとパンクを融合させた「ニューレイヴ」バンドだと言う。一応分かり易く説明してしまえば確かにそうなのだが、かと言ってそれで説明出来るかと言えばそうでもないのがまた厄介なところ。敢えて言うならば、今時の若者が「昔の音楽だとかルーツだとかよく分からないけど、とにかく奔放にやっていますよ」的な無類のイノセンスとそれ故の無鉄砲さを、これでもかと爆発させまくった青春暴走超特急バンド。「それってArctic Monkeysと一緒じゃねーか」と突っ込まれれば「はい、そうです」としか言えないんだけど、だってそうなんだから仕方ないじゃないか。というか、「あれ、これってArctic Monkeysですよね?」と思わせる、如何にも流れに乗っちゃってますよ丸出しな曲も確かにあるが、やたらめったら耳につくキャッチーなメロディや高音コーラスのリフレインの抜けの良さはピカイチだし、「Golden Skans」なんかで見せるメロディメーカーっぷりにも悶絶しまくり。そんな風に有象無象がごちゃ混ぜになりながらも、一曲一曲が素晴らしく高い純度のポップミュージックとして成り立っているから不思議。カオティックでありながらもどこか整然としたジャケットのデザインがそのまんま音になったといえば一番伝わり易いかもしれない。「うわ、なんだこりゃ。ギャハハハ! 最高! 」なんて笑って聴いてたら、いつの間にかフレーズが頭から離れなくなってぐるぐる回ってる。中毒性の高さは保証付きなので、とにかく一度お聴きあれ。視聴はコチラ

デジャヴ

もう少しで傑作になれたのに…。

パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズのジェリー・ブラッカイマートニー・スコットと実に6度目のタッグを組んだサスペンス・ミステリー。始めて来た場所なのに何故か一度来た事があるような気がする錯覚「デジャヴ(既視感)」をタイトルにしているだけに、何だか心霊的な匂いが漂っているが、そんな要素は全然なく、タイトルになっている「デジャヴ」ですら実はほとんど関係ない。なので、映画を見て「あれ? これってこんな映画だったんだ」と始めて気づかされた。そう言った予想外な部分に対してまず好き嫌いがはっきり別れる部分もあると思う。

突如として起こったフェリー爆破事故。大勢の死傷者を出したこの事件を捜査していたダグ・カーリン(デンゼル・ワシントン)は、FBIの要請で特別捜査本部に招かれる事になる。そこにあったのは現在から「4日と6時間前」を完全に再現出来る最新の監視システム。限定された地域内であればどんな場所でもあらゆる角度から再現して見る事が出来るが、早送り、巻き戻しは出来ない。リアルタイムで進行する「4日と6時間前」の映像を見ながら、彼らは爆破事件の犯人の足跡を辿ろうとするのだが…。

この映画の肝は何と言っても「4日と6時間前」を完全に再現出来る監視システムの存在とそれを駆使して捜査するという斬新な発想にあるだろう。早送り、巻き戻しが出来ないので捜査陣は「現在」と「過去」の二つの空間を体験する事になる。この微妙なタイムラグが物語の緊張感を生み出し、捜査の展開を劇的に盛り上げる。システムが持つ制限に則った「ルール」上での捜査はそれだけでかなり面白い。特に過去の映像と現在の映像が入り交じったカーチェイスはかなりの面白さ(犯人の車は深夜走っているのでガラガラの道を走って行くが、追跡する方はそれを見ながら現在の車が往来する道を猛スピードで追跡する)。実をいうと中盤辺りまでは「これすんごい傑作なんじゃないだろうか」と興奮を隠しきれなかった。しかし、後半に差し掛かり途端に失速。突如としてシステムの「あるルール」を自ら打ち破るような真似をしてしまい、それ故にかなり力技で物語を畳み掛けた印象が強い。詳しくはネタバレに抵触するので言えないのだが、折角面白いアイデアとルールを用意していたのだから、それを活かし切った上で物語を終わらせる方法を模索してもらいたかった。まあ、その後半の力技な部分に関しても序盤から準備してあった伏線の数々を奇麗に回収していてプロット的にはかなり美しかったりするのだが、やはり設定の突破に無理矢理さが否めない。その無理矢理なところがブラッカイマーだと言ってしまえばそれまでなんだが…。うーん。

どろろ

映画よりも連続ドラマ向きな作品かも

手塚治虫原作の漫画「どろろ」を妻夫木聡柴咲コウ主演で実写映画化。天下を取るという父・醍醐景光の野望のために身体の48カ所を魔物に奪われて生まれてきた主人公の百鬼丸。妖怪を一匹倒すごとに失った身体を一体取り戻すことが出来ることを知った彼は、偶然出会った泥棒・どろろと共に妖怪退治の旅をすることに。やがて彼は自分の身体の秘密とその元凶である父の存在を知り、運命の中で苦悩する…。

ロード・オブ・ザ・リング」や「ナルニア国物語」が撮影されたニュージーランドでロケを敢行し、スケール感のある映像と黒沢和子による色彩豊かな衣装が映えるビジュアルイメージは一瞬で目が惹きつけられる美麗さを誇っており、予告編を見た限りではかなり胸躍るものがあったのだが、予告編の段階であまりに期待しすぎたせいだろうか、実際見終わってみると少々肩すかしな感じが残ったのは否めない(いや、これは僕自身の問題でもあるのだが)。原作のストーリーは当時の手塚氏のスケジュールの都合上、ほとんど打ち切り的な結末を迎えており、かなり消化不良に終わってしまっているのだが、それを再構築して物語としての着地点をつけているのと、どろろの身体に隠された「財宝探し」のエピソードを省くことで、物語を「妖怪退治」と「醍醐景光との対決」という要素に絞った以外はほとんど原作に忠実に作られている。とは言え、少し「妖怪退治」の面をクローズアップしすぎたのではないだろうか。妖怪を倒すことで百鬼丸は身体を取り戻して行く(同時に弱体化もして行く)というエピソードは「どろろ」の肝ではあるのだが、ほぼ序盤でそのストーリーは十分すぎるほどに語られている。にも関わらず、中盤でダイジェスト的に妖怪3体とのバトルシーンが描かれているせいで、このシーンだけが前後のストーリーから浮いてしまい、物語の繋がりを完全に途切れさせてしまっている。肝心の妖怪も予告編を見た限りではフルCGのクリーチャーかと思いきや、実際は着ぐるみベースにCGを少し加味した程度のもので、美麗な背景や衣装と比べると安っぽく感じてしまう。所々にある特撮ヒーロー的なバトル演出に好感も抱いたが、やはりどうしても必要なエピソードと思えず、蛇足的な感じが拭いきれなかった。この部分を端折るだけで、物語が全体的に引き締まる気がする。後半の醍醐景光、実の弟多宝丸との対峙から人間ドラマと運命の皮肉さがぐっと深みを増してくるだけにかなり惜しい。

また、百鬼丸と旅を共にするどろろが女性だということは原作では結構どんでん返し的に後半で明かされる真実なのだが、この映画では最初から隠さず柴咲コウが堂々と演じている。その事に最初は確かに違和感を覚えるのだが、後半で自分の運命を知って苦悩する百鬼丸が、ひとつの結論に至る理由づけとして機能しているので、このアレンジはそれらの計算を踏まえた上でのものと考えて間違いないだろう。別にパラノイアチックなまでに原作に忠実であることにこだわる必要はどこにもないのだ。漫画は漫画。映画は映画それぞれの面白さがあっていいと思う。

そんな風に映像化する事で出てくる良い面と悪い面が交互に顔を出すので、見ていても「あ。ここはちょっとなぁ…」「あ。ここは面白い」と一喜一憂してしまい、全体的に見ると「つまらなくはないけど、凄く面白くはない」というなんとも中途半端な気分で試写場を後にする事になってしまった(まあ、先にも記述した通り、僕自身の期待値が高すぎたせいもあるのですが)。2時間半で無理矢理まとめあげなくては行けない映画よりも、どちらかと言うと連続テレビドラマの方が合っている作品かもしれませんね。予算的な都合上難しいかもしれませんが。