真夜中の弥次さん喜多さん

枷があった方が光る才能

真夜中の弥次さん喜多さん DTS スタンダード・エディション [DVD]
今や飛ぶ鳥を落とす勢いの宮藤官九郎初監督作品。しりあがり寿原作の漫画をクドカンが映画化するとなれば、期待せずにはいられないと言う程相性抜群の組み合わせだと思っていたのだが、観賞後の感想は一言で言うと微妙。やりたいことや情熱は伝わってくるのだが、どれも消化不良に終わってしまった感が否めない。
ワイルドな弥次さんと、ドラッグ中毒の喜多さんのホモカップルは、「自分探し」のためにお伊勢参りに行くことに、というのが一応プロットの柱として存在はするものの、その後はストーリーも常識も全部無視したナンセンスギャグの応酬。最終的には生と死、夢と現実という大きな対立軸を浮かび上がらせてはいるものの、物語として昇華はせず、力技でオチに持ち込む感じ。映画と言うより小劇場で芝居を一本見たような味わいに近い。でも、これを映画でやっちゃったのは正直辛かったなぁと言う印象。
ストーリーがテーマ性を浮かび上がらせつつも、物語として破綻しているという文法は、劇場という演者と観客が同じ空間に存在しているからこそ力技でねじ伏せられるものであって、空間として切り離された映画では、確実に観客は置いてけぼりを食らう。演劇には演劇の、映画には映画の見せ方がそれぞれあるわけで、演劇のそれを映画に持ち込めば成立するかと言えばそうではない気がする。その辺の棲み分けが出来ていないため、せっかくのギャグも独りよがりなもので完結してしまい、ほとんど笑えないという結果を招いてしまっている。これは舞台の上で実際演じた者でないと絶対分からないと思うが、舞台であっても内容の面白さは常にボーダーライン上にあり、笑わせられるか満足させられるかというのは日々の戦いであって、全力で挑まないとあっと言う間に観客に呑まれてしまう。完成された定型文の笑いしか提供出来ない映画という見せ方では、それ用にしっかりと練らなければ、毎回「面白い」と思わせられるわけがない。だが、この作品にあるのはただの「舞台のそれ」でしかなく、演技としてどうか以前に映像としては投げやりにしか映らない。その為、全編に渡って投げやりな笑いが延々と垂れ流されてしまうと言う悲劇が起こっている。ここまで来るとただのオナニーにしか見えない。いや、ひょっとしたら自己満足の領域まで達しても居ないのではないだろうか。クドカンは脚本家、舞台役者、演出家のそのどれをとっても有能であり、マルチにこなせる才能を持っているのに、この辺りが分からなかったというのがどうにも理解出来ない。ひょっとして、わざと外したのではないかとすら思えてくる(そう言う狙いの演出と言う意味ではなくて、映画監督という仕事そのものが消化試合だったという意味)。
舞台人としてのクドカンファン、テレビ、映画の脚本家としてのクドカンファンのそのいずれの人にも、この「真夜中の弥次さん喜多さん」はあまりお勧め出来ない。これを見て色々面白さを見つけて色々議論することも出来るけど、そもそもしりあがり寿の原作からしてナンセンスな代物なので、そんなにスノッブな見方をするものどうかと思う。原作のあの気持ち悪さや強烈な笑いを、クドカンが料理して笑わせられるかどうかという一点でしかこの映画は評価出来ず、あまり笑えなかったという意味では僕は失敗だったと思う。
舞台にしても脚本にしても、制作中に色々な枷が発生し、演出家や脚本家はその枷(注文)をクリアすることでよりよい作品を作っていく。君塚良一三谷幸喜、そして宮藤官九郎。彼らに共通しているのは、監督作がいずれもあまり面白くないと言うこの一点に尽きる。枷がある方が光るというのは「そういう才能の持ち主」と言うことだと思う。ある程度思い通りになる環境での映画作りは逆に牙を抜いているのではないだろうか。
あ。でも、キノコまみれのえっちぃ格好をしていた麻生久美子は超可愛かった。あんな麻生たんに「豆腐買ってきて」と言われたら、僕はどうして良いか分からない。麻生たんはどうしてあんなにエロ可愛いのだろう。素敵。