Be my Last / 宇多田ヒカル

ジャッジに一票(既聴)

Be My Last(DVD付)
「ジャッジに一票」って、いきなり何を言ってるんだと思っている人も大勢居るかも知れません(と言ってもここ見てる人なんてほとんど居ないんですけど)。このレビューはbounce.comで連載がスタートした「菊地成孔のチアー&ジャッジ!」に参加するために書いた物なのです。よく分からない人はリンク先を読んで下さい。そして、トラックバックからいらっしゃった皆様、ようこそ僻地へ(笑)。
宇多田ヒカル名義としては「誰かの願いが叶うころ」以来、実に1年半振りとなるニューシングル。三島由紀夫の遺作「豊饒の海」第一部「春の雪」を行定勲が監督、主演に竹内結子妻夫木聡を迎えて映画化したものの主題歌としてもタイアップが決定している。
が、聴こえてくるのは今までの所謂宇多田節とは違い、どことなく民謡や演歌に繋がる非常に日本的で古風なメロディ。唯一宇多田節と言えるのはサビのフレーズだけだが、それも同じメロディのリフレインだけで終わってしまうと言う、どうにも盛り上がりに欠ける感じ。タイアップがタイアップなので、そのあたりを考慮したようにも取れるが、何度聴いてもどうにも釈然としない後味だけが残る。彼女は昨年UTADA名義でもアルバム「Exodus 」を発表し全米デビューを、今年に入ってからイギリス、ヨーロッパでもデビューを果たしているのだが、その海外向けに制作された「Exodus」からも同様に釈然としない感じを味わったのを覚えている。両方に共通しているのは「宇多田ヒカル」を払拭させるためのパブリック・イメージの破壊ではないだろうか。「Exodus」は今までのJ-POP的なメロディを廃し、徹底的に海外のリスナーを視野に入れた楽曲を制作したため、日本の従来の日本人リスナーには「宇多田らしくない」「宇多田っぽいけど、そんなに良いとも思えない」という中途半端な印象を植えつけた。この「Be My Last」では菊地氏も言うように「マンネリ」打破のための「自壊意識」が意図的に宇多田節を廃しているように感じられる。
ただ、両者を隔てる決定的な差は、「Exdous」は徹底的に作り込んで宇多田節を殺したのに、この「Be My Last」は「何となく思いついたまま、そのまま作って、なんとなく出来ちゃいました」という即興的な(悪く言えば適当でいい加減な)匂いがプンプンする。もちろん、作った本人はもの凄く真剣に作ったかも知れないが、聴いているこちらとしてはあまり本気度が伝わってこないと言うか、肩の力を抜いて5割くらいの力で作っているような印象を受ける。近年の宮崎映画のような「思いついたまま」そのままの楽曲。お約束をなくした「思いついたまま」のメロディに新しさを求めたのかもしれないが、抑揚もドラマ性も得られず、不発に終わってしまったというのが正直な感想だろうか。先も見えないし、落としどころも見えない。ただ始まって、何となく流れて、行き着く先で終了している。作り込もうという意識もあまり感じられない。それが悪いとは思わないし、別段怒っているわけでもないが、「なんかさー。宇多田って、もっとやれる子だと思うんだよねー」という物足りなさだけが残るのだ。まあ、そんなこっちの勝手な期待が余計なお世話だったりするかも知れないのだけれど。リスナーとして、宇多田ヒカルの才能に期待するものとして、海外を見てばかりで足元が疎かになってるんではないの?とちょっと注意するような気分でジャッジに一票。