武士の一分

芯の通った骨太な演出が見せる、ストレートな時代劇

ウォン・カーウァイ監督作の「2046」や「ハウルの動く城」への声優参加など、近年の木村拓哉の活動は明らかに「海外」を視野に入れていたと思われる。ここ10年ほどの間、日本中の注目を常に集め続けて来た男としては、この日本が少々窮屈に感じられるようになったのも仕方ないし、そこから抜け出して「世界」という舞台で戦ってみたいという気概は、庶民の僕でもまあ想像は出来る。ただ、彼の気概に反してその活動自体はどうにも浮き足立って見えたのも、また否定出来ない事実だ。現に「2046」ではあれだけ出演が騒がれたにも関わらず、出演時間は異常に短いものだったし、「ハウル」にしても日本語の分からない海外メディアを相手にしていれば、演技そのものの評価というものは分かりにくい。結果、作品だけが一人歩きしてしまい、彼の功績そのものには繋がらなかった。「世界」という目標を眼前に、もう一度自分の足下を見つめ直す必要があったのではないだろうか。そこに来て、この「武士の一分」である。

山田洋次監督による藤沢周平作品三部作の最終章にあたるこの作品に、木村拓哉が参加すると聞いた時、僕はちょっとした驚きと共に「ああ、やはりな」という思いになった。「日本」というステージを退屈に感じ、世界に挑んでみたものの、その壁の高さに打ちのめされた彼が取ったのは、「今まで狭く感じた日本で、自分が本当に出来る事は何か」ということだったのだ。皮肉にも彼の主演する安っぽい連ドラの主人公のような判断だが、僕は結構感動した。思えば木村拓哉はいつも「王道」な道を歩いて来た。小劇場などに代表される日本のサブカルチャー的な要素と結びついてファン層を更に拡大する事も、彼ほどの器があれば恐らく容易であったはずなのに、彼は徹底して「トップランカーである木村拓哉」というヒーローのまま、メインストリームを駆け抜けた。それ故に「浅い」「チャラい」「格好つけ過ぎ」などと批判もされたが、飽きられ易いこの国で「王道」を貫き続けるのもそれほど容易ではなかったはずだ。変化球に逃げる事なく「王道」を進み、もう一度「日本」というステージを見直す。今の彼にとって、この「武士の一分」ほどこの条件に見合った作品はなかっただろう。

藩主の毒見役をしている最中に貝の毒に中り、失明してしまった下級武士・三村新之丞。絶望して自害まで考えた彼だが、最愛の妻に説得され、支えてもらい、漸くの事で生きる希望を見つけ出す。しかし、ある事から彼らの仲は引き裂かれてしまう。新之丞は「武士の一分」 (一分とは、命をかけても守らねばならない名誉や面目のこと) の為に、失明の身でありながら再び剣を取る事を決意する…というのが大まかなあらすじ。

戦いたくない相手と戦わなくてはいけないというものが前提にあった「たそがれ清兵衛」「隠し剣・鬼の爪」と打って変わり、「愛するものの為に復讐を果たす」という直球な時代劇に回帰した今作だが、山田洋次監督の一本芯の通った骨太な演出のおかげで、すっかり使い古された筋書きであるにも関わらず、飽きる事なく2時間を過ごす事が出来る。食事や台所をはじめとする生活場面、思わず笑ってしまうような人情味豊かな会話には全て血が通っており、当時の人々は本当にこういう風に生きていたのだろうなぁという思いにさせられた(当時の風俗事情に疎い僕が言うのもなんだが)。その平穏な日常の裏側で主人公である新之丞の失明への絶望感、情けない自分や復讐相手への怒りがじんわりと募って行く。何気ない日々の中で鬱積して行く負の感情は、血の通った世界観だけに、異様な迫力でもって観客に迫ってくる。

今まで徹底して「格好良い役」ばかりをやってきた木村拓哉も、今回は髪はボサボサで目の下には酷いクマがある汚い格好で、失明というコンプレックスとそれ故に起ってしまった一連の事件に対する苦悩を、鬼気迫る芝居で演じてみせている。何を見ても「コピペ」と評価されて来た今までの彼の芝居だが、この演技を見れば、今回の作品にどれほど意気込んでいるかというのもすぐに分かるはずだ。そうして溜まりに溜まった怒りが爆発するのが、クライマックスの果たし合いシーン。「チャンバラ」ではない、本格的な「殺し合い」そのものの殺陣は、弾け合う切っ先から空振る風切りの音まで、とてつもない緊張感が漂っていて一瞬たりとも目が離せない。一振りに込められた命の脈動と、たった一撃が死に繋がるという恐怖の大きさも凄まじいが、だからこそ新之丞が命がけで守ろうとする「一分」が際立って見えるのも実に上手い。

少しばかり長くなってしまったが、この「武士の一分」は正統派な時代劇でありつつも、全く新しい力に満ち満ちた作品となっている。時代劇好きの両親と連れ立って、親子でも楽しんでもらいたい映画だ。個人的には今後の木村拓哉の動向も気になるところ。「日本」というステージを見つめ直した彼が、次に何を見せてくれるのか期待したい。

原作の「盲目剣谺返し」の方も50ベージほどの短編なので、公開前に読んでおくのもまた一興でしょう。

DEATH NOTE the Last name

原作ファンにほど見てもらいたい衝撃のラスト

6月に公開され、「デスノート現象」を巻き起こした実写映画版の後編にして完結編。原作にはないオリジナル・キャラクターを登場させ、映画版ならではの醍醐味を見せてくれた前作は、映像やCGの安っぽさを差し引いても、漫画原作の実写映画化としては十分及第点に達していたが、やはり前哨戦でしかないという印象は拭いきれなかった。どれだけよく映像化していても、結末を見なければその善し悪しは判断出来ない。大げさでも何でもなく、「DEATH NOTE」の実写映画版が成功か否かというのは、この後編に委ねられていたのだ。それに加えて前作を見た観客の期待と大ベストセラーが原作という重荷まで背負いこんでいるコンテンツだ。そのプレッシャーに潰されて小さくまとまりはしないかと正直かなり心配していたのだが、ようやくの事で結末を目撃し、今はっきりと断言出来る。前作や原作が気に入った人ならば、是非とも劇場に足を運んで見てもらいたい。この「DEATH NOTE the Last name」は、映画版の結末を待ち望んでいた人々の期待に見事に応えた快作だ。
映像化にあたって、いくらか登場人物の設定がアレンジされたり、力技で押し切る部分はあるものの、月とLの出会いから一応の決着が着くまでの長大なストーリーを2時間20分の上映時間に詰め込みながら、性急な印象は決して与えずにほぼ忠実に再現。前作以上にオリジナル要素が高くなると予想していた身としては、逆に忠実すぎて驚かされた。これほど忠実で原作とは違う「衝撃の結末」にどう落とし込むのかと途中から色んな意味でハラハラドキドキしたが、最後の最後で明かされる肝のトリック解明シーンでは、実によく練り込んだ出来に思わず舌を巻いてしまった。「デスノート」のルールを熟知した上で、考え出されたこのもう一つの結末はひょっとしたら原作のそれを上回る出来かもしれない。熱心な原作ファンだった僕ですら、原作もこのトリックで終わらせておけば良かったのではないかと思ってしまうほど素晴らしかった(整合性という意味ではなく、インパクトとカタルシスではこちらの方が明らかに勝っている)。もちろん原作を読んでいなくても楽しめる作りではあるのだが、この結末は原作を一通り読んだ上で味わってほしい。全く新しい「DEATH NOTE」の世界を味わえるはずだ。どうあれ、完成された世界観に沿いながらも結末を変え、しかもある程度観客を納得させられるものを提示することに成功した映画スタッフは本当に良く頑張ったと思う。心から拍手を送りたい。

10/27に日本テレビ系列で「DEATH NOTE 前編」が放送されるので、見ていない人はこれを見て、既に見たという人ももう一度おさらいをして劇場へ。「衝撃の結末」があなたを待っています。

手紙

感情の交差が生み出す感動的な人間ドラマ

直木賞作家、東野圭吾の原作小説を山田孝之主演で映画化。自分を大学にやるために盗みに入り、その末に過って人を殺めてしまった兄。主人公は「殺人者の弟」というレッテルを貼られ、世間から差別され続ける人生を送ることになる。何度も何度も立ちふさがる世間の壁。その為に失ってきた夢と恋人。そして、獄中から届き続ける兄の手紙。
「兄貴がいる限り、俺の人生はハズレ」
そう考えた彼は、兄との唯一の繋がりであり鎖でもある手紙を断ち切ることを決心する。

白夜行」の東野×山田コンビ。更に「タイヨウのうた」の山田×沢尻コンビという、どこかで見たことのあるカップリングばかりで、正直最初は「どうだろうか」と危惧していたが、観賞後には涙が止まらないほどの感動に打ち震えていた。これはただ「泣かせるフラグ」だけを用意し、それを消化することで安直に観客を「泣かせる」映画ではない。映画の中に生きる人々の歴史という縦糸と感情の横糸を丁寧に織り上げていき、そのシンフォニーが生み出す深い人間ドラマに心が突き動かされ、その結果涙が溢れ出すという「泣かずにはいられない」映画だ。人が背負う罪とは何か、本当の贖罪とは何なのかという重いテーマに奇麗事ではなく真正面から向き合う姿勢。そこから見えてくる人と人の本当の絆。多くの問いかけと様々な感情の入り乱れをひとつひとつ纏め上げ、それぞれに明確な答えを配置していく脚本と演出は地味でありながらもしっかりした仕上がり。何よりも主演の山田孝之の演技が凄い。かなりハイレベルな感情表現を要求されるクライマックスシーンを見事に演じ切り、芝居で観客の心に直接訴えかけてくる。雰囲気や演出に頼りがちの若い役者が多い中、卓越した演技力を見せている。原作では彼が演じる主人公はミュージシャンを志し、成功を目前に挫折するという設定であったが、映画ではこれがお笑い芸人に変更されており、それがクライマックスにおいて重要なファクターとなっているのも見所のひとつだ。原作の感動を活かしつつ、より映像的にアレンジされたこのクライマックスシーンは、個人的にここ最近見た邦画の中ではダントツの名場面。彼を支え続ける沢尻エリカの方は、関西弁に違和感があるのは否めないが、芯の強い凛とした表情は彼女にしか出せないものだろう。突出した存在感で重苦しい物語の中に鮮やかな光を投げかけている。関西弁ではなかった方が、彼女の魅力をもっと引き出せたように思えるのが残念だ。

確かに物語にも演出にも派手さはない。けれども何ひとつ誤魔化さず、真っ向勝負で人間の闇と可能性を描き切った本作は、何年経っても心に残り続ける一本だ。船が沈まなくとも、ましてや日本が沈まなくとも、不治の病で人が死ななくとも、人の心を動かすことは出来るということを教えてくれる作品である。感動すら消費され、少し食傷気味になっている人に味わって欲しい最高級の人間賛歌映画だ。

涙そうそう

涙そうそうを聴かせるための壮大な前振り映画

BEGINが作曲、森山良子が作詞を手掛け、夏川りみのカヴァーで一躍世間に浸透した名曲「涙そうそう」をモチーフに制作されたのが本作。若くして亡くなった森山良子の兄を想って書かれたという詞になぞらえ、沖縄を舞台に血の繋がっていない兄妹の強い絆とほのかな恋心を描いた物語だ。主演には妻夫木聡長澤まさみ。脇には麻生久美子小泉今日子など日本映画界を支える布陣を配置という鉄板とも言うべき組み合わせ。これで泣けないわけがないだろうという匂いがあちこちから漂ってくるが、実のところ泣けるかどうかと聞かれたら、正直かなり微妙だ。

涙そうそう」の歌詞の内容から「兄が死ぬ」と言う結末が明確に提示されているストーリー構成上、どう見せるかという落語的な「語り」の技術が問われる作品であるにも関わらず、この作品はその「語る」と言う手法にほとんどと言っていいほど力を入れずに、主役の兄妹の二人の存在感がどれだけ出せるかという方に演出のベクトルを向けているため、全体のバランスがかなり偏っている。確かに主演二人の好演による自然体なやり取りとそこから醸し出される空気感は、二人が本当に沖縄に生まれ育った実の兄妹であるかのような錯覚さえ引き起こさせるが、肝心のストーリーの方がすっかり使い古されたものなので目新しさがない。ありきたりな設定で迎えるありきたりな困難。それに対するありきたりな葛藤を、全て「舞台が沖縄」というその一点でのみでフィルターにかけ、目新しく見せようとしているに過ぎない、かなりお粗末なものだ。用意したプロットのプロットポイントと「泣かせる」フラグを黙々と消化するだけの流れ作業な物語は、中盤からかなりの停滞感を見せ、最初から見えている結末をどんどんと遠ざけていく。そうして、すっかり観客が疲れた頃に急転直下で突然クライマックスを迎えるので、あまりの性急さに気持ちが全く追いつかず呆然としてしまう。淡々と綴られるエピローグを見ても全く泣けず、最後に「涙そうそう」がかかった頃に漸く気持ちが追いついてくると言う、かなりの時間差を要する感動だ。もっと言うなら「涙そうそう」を聴かせるという、ただそれだけの為に2時間使った壮大な前振りと言ってもいいだろう。そのせいもあって、観賞前と観賞後とでは「涙そうそう」の聴こえ方がまるで違い、後者の方が圧倒的に感動的に胸に響く。しかしだからといって、その感動にこの映画のシーンがリンクするかと言えばそうでもなく、「かなり微妙」な感動だけがもやもやと残る。

役者面では長澤まさみの存在感がやはり強すぎるというのが正直な感想だ。今回妻夫木聡と共演することで、漸く相手役とのバランスが取れるかと思っていたが、妻夫木聡を持ってしても、長澤まさみの前では存在感が薄れてしまう(物語の構成上、彼の方が圧倒的に出番があるにも関わらずだ)。もちろん撮る方の意思も十分に反映された結果だろうが、あまりの存在感に、どこを見ても「長澤まさみのグラビア」に見えてしまうのは、この場合マイナスだろう。存在感の大きさは女優としては必要な要素だが、オーラがありすぎると言うのも、また問題だと思う。後は、ロックファンにはちょっとしたサプライズですが、長澤まさみの失踪する駄目親父役(しかもかなり重要な役)で中村達也が出ています。トランペット吹いててだらしなくて超駄目親父なんだけど、超カッコイイです。これは必見。

木更津キャッツアイ ワールドシリーズ

有終の美を飾る完結編

2002年にテレビシリーズで登場し、視聴率はそれほど良くなかったにも関わらず、熱狂的な支持者を生み出した「木更津キャッツアイ」。翌2003年には劇場映画版「木更津キャッツアイ 日本シリーズ」が公開され、後追いファンが続出するなど人気シリーズとなった本作が3年ぶりにカムバック。若年性の癌で余命半年の宣告を受けたぶっさん(岡田准一)が、残りの人生を普通に楽しく過ごすために始めた泥棒集団「木更津キャッツアイ」のメンバーの日常をオフビートな笑いで描いてきたこの作品だが、今回はそのぶっさんの死後3年経った世界が舞台。それぞれの道を生きる登場人物たちの前に、何故かぶっさんが復活して現れるという物語だ。

劇場版進出第一弾だった「日本シリーズ」はファン感謝祭という色合いが強く、最初から最後までやりたい放題で投げっぱなしなお祭りムードの様相を呈していたが、今回は完結編という意味合いもあって、いつもの笑いやノリはありつつも物語としては比較的まとまっており、泣かせどころもしっかりとある。笑わせるところでは常識破りな要素をバンバンと投下しつつも、締めるところで臭すぎる演出や科白は敢えて避ける、「木更津キャッツアイ」を始めとするクドカン作品の醍醐味とも言えるこのコントラストは今回も絶妙な味わいをみせ、観客に大きな笑いと自然体のほのかな感動を与えてくれるはずだ。とは言え、やはりこのシリーズのファンであることが前提の作りになっているので、見たことがないという人は今からでも遅くないのでテレビシリーズと前作「日本シリーズ」を絶対見ておくことをお薦めする。また、作中に過去のエピソードとリンクする箇所も当然ながらいくつか出てくるので、ファンの人ももう一度全部見直しておさらいしておくとより楽しめるはずだ。

青春期特有のバカさ加減と無鉄砲さを見せつけて駆け抜けていった「木更津キャッツアイ」だが、青春に終わりが来るように今回で完全なファイナルを迎える。しかもただ終わらせるだけでなく、何かが終わった後にどう生きていくかと言うことと向き合っていく終わり方だ。もちろんこのシリーズなので、それほどはっきり描いていないし、説教くさいわけでもない。けれど見終わった後に「ああ、このシリーズが好きで良かったな」と心から思える作品だった。そう、この作品は「木更津キャッツアイ」がファンとちゃんとバイバイするための作品なのだ。熱に浮かされたような青春期は終わりを告げ、僕らは大人になっていく。そうしていつか若かりし頃を振り返って「ああ、バカだったな」と大笑いして語りあうのだ。完結編を見た今、はっきりと分かる。「木更津キャッツアイ」はそんな青春そのもののような作品だ。今までありがとう。お疲れ様。

レディ・イン・ザ・ウォーター

シャマランの奇妙な冒険

こう言うと決まって驚かれるのだが、僕はM・ナイト・シャマランの大ファンである。彼の作品はどんなにつまらなくても必ず見に行くし、DVDも全作品持っている。どうして好きなのかと問われれば、それははっきりとは答えられないのだが、あの勿体つけた話の前振りと、それに反比例するかのように突きつけられる脱力極まりない結末のギャップがどうしようもなく愛しい事だけは確かだ。まるでビックリ箱をプレゼントするかのような、いたずらっぽさ。そのビックリ箱を開けて相手が驚くか否かが問題ではない。相手を驚かせよう、楽しませようと言う、その心意気と無謀さとイノセンスに僕はきっと惹かれ続けているのだろう。

そのM・ナイト・シャマランの最新作「レディ・イン・ザ・ウォーター」をいち早く観てきた。引き篭りがちなアパートの管理人が、プールに住み着いていた妖精をと出会ったことから不思議な出来事に巻き込まれていくと言うこの物語は、元々はシャマランが子供を寝かしつける際に即興で作ったと言うシャマラン流「おとぎ話」。今回は今まで売りにしてきた「どんでん返し」を廃し、物語ることに徹底するなど、今までと違った趣を見せてはいるものの、見終わってみると、やはり徹頭徹尾完全完璧な「シャマラン映画」。登場人物たちが異常な事態、現象を目の前にしてもほとんど驚くことなく物語を進めていくのは、おとぎ話だからと言えば聞こえはいいが、いい大人が妖精やそれにまつわる伝承に飲み込まれていく様は、純粋を通り越して狂気的ですらある。

シャマランの映画の多くには元ネタが存在し、「オリジナリティなどどこにもない」と叩かれがちだが、それでもこんな異質な作品をメジャーで発表できるのは彼しかいない。そういう意味で、やはり彼はオリジナルなのだ。言い方を変えるのならばこんな映画を撮るのは、いや、撮って許されるのは彼一人であり、オンリーワンな意味で「シャマラン映画」は「シャマラン映画」でしかなく、何処にも属さない、ひとつのジャンルという風に落ち着いてしまう。他の追従を許さないこの奇妙で奇怪な世界観は誰にも真似できないだろうし、それ以前にバカバカしすぎて真似しようと言う輩もいないと思う。もらったプレスには「新しいシャマラン・ワールド」と書いてあったが、僕はむしろ「バージョン・アップされた」と表現する方が近い気がする。それを示すかのように、毎回ちょこっとだけカメオ出演しているシャマランが、今回は準主役級の役で出ずっぱりだったりするのだ。いくらファンでも「それは出すぎだろ!」と突っ込まずにはいられない。

キャッチーな映像や独自のユーモア、そして高い編集技術で飽きさせないストーリー・テリング力は相変わらず素晴らしく、僕のようなシャマラン独特の世界観とバカバカしさを楽しめるファンには夢のような時間だが、例によってその他の一般の人々にはまるでお薦め出来ない、クサヤのような作品だ。間違ってもデートムービーとして観に行ってはいけない。相手に末代まで文句を言われるのは確実だろう。そこまで理解した上で、やっぱり僕は彼の映画が好きなのだ。一度ハマったら抜けられないこの味わい。誰かを道連れにするつもりはないが、今のところこちらから出て行く理由もない。

時をかける少女

間違いなくこの夏最高の映画

筒井康隆原作でこれまで何度も映像化されてきた「時をかける少女」を完全オリジナルでアニメ化したのが本作。メガホンを取ったのは「デジモンアドベンチャー」「ONE PIECE オマツリ男爵と秘密の島」などで高い評価を得てきた細田守監督(この監督、本来「ハウルの動く城」の監督を務める予定だったが、ジブリ側と折り合いがつかず降板した事でも話題になった新進気鋭のアニメーターである)。今回、初のオリジナル作品を制作、公開前にほとんど宣伝もされておらず(実際僕も試写をスルーしました。すみません)、ひっそりと上映が始まったこの「時をかける少女」だが、インターネットの口コミで人気が沸騰。現在上映されている数少ない劇場は連日立ち見が続くという大ブレイクを果たしている。あまりの好評価っぷりに気になって劇場まで足を運んだのだが、とんでもなく面白かった。すみません。試写スルーして。何度でも頭を下げます。

原作の主人公・芳山和子の姪にあたる高校生の紺野真琴が今作の主人公。ふとしたことからタイムリープの力を手にした彼女は、妹に食べられたプリンを食べたり、テストや調理実習での失敗を挽回すべくタイムリープを駆使して、日常を謳歌する。しかし、男友達の間宮千昭から突然告白された真琴は、恋に後ろ向きなためタイムリープの力でそれをなかった事にしてしまい、そこから人間関係に微妙な変化が訪れはじめる。更に、真琴が繰り返し行ってきたタイムリープにより周囲の人間にも徐々に歪みが生じ出す。真琴はそれを修正すべく、何度もタイムリープを試みるのだが、やがてそれはとんでもない事態を引き起こし…。

原作のテイストを残しつつも全く新しく生まれ変わった「時をかける少女」は、明るく前向きな主人公・紺野真琴を始めとして、スピーディで躍動感溢れる作品へと生まれ変わっている。友達のため、人のため、そして恋のために全力で走り続け、全力で笑って全力で泣く真琴は本当に魅力的だし、彼女が動かしていく物語もダイナミックな力に満ちあふれており、観客の心を掴んで離さない。タイムリープという絶大な力を手にしながらも半径10メートルの日常にしか使用せず、しかしだからこそ描ける日常的で等身大な恋と青春を最大限に描き切った脚本と演出は完璧ともいえる完成度。特に伏線や整合性の面でかなり複雑に入り組んでいるタイムリープの現象をすっきりとまとめ、巧みに伏線を紛らわせている手腕は本当に上手い。しかもその巧みさが一見分からないのが一番凄いところだ。本当の達人の技というのは目に見えるものではないのだから。完全オリジナルでありながら、最後の最後でしっかりと原作のテイストの方へ落とし込み、切なさと甘酸っぱさでほんのり泣かせる展開は爽やかな感動を残すので何度でも見たくなってしまう。同じアニメ作品である「ブレイブ・ストーリー」「ゲド戦記」と比べ評されることが多いこの作品だが、僕は洋画、邦画、アニメ映画と全てのジャンル含めて、この夏見た映画でこの「時をかける少女」が一番面白かった。ひょっとしたら今年の映画でNO,1かもしれない。

上映館が少ない事で見れな人も多いと思いますが、徐々に増えてきてはいるみたいなので、ちょっと遠出してでも是非とも見てください。絶対元が取れる作品です。あちこちのサイトで既に言われている事だとは思いますが、素晴らしい感動に出会える一本です。